

17時半の予約にもかかわらず、すでにお客さんでいっぱいである。
お料理は秋の趣向を凝らしたどれも美しいものばかり。
もちろん美しいだけではなく味もとてもおいしい。さすがお茶人の方々が贔屓にするのがわかる。
そして味ぷらすお料理のボリュームもかなりある。
食いしん坊の私でも最後のお汁粉が入らなかった。
今回はそのまま帰らずに広島に移動して、宮島に行く予定だ。
京都の次いでというには遠すぎるけれど、前から行きたかった厳島神社。
翌日はさらに冷え込んだけれど、余計に空が青くすがすがしい陽気になった。
宮島口までJRで移動し、そこからはフェリーで渡る。
なんとなく日差しの明るさから、イタリアのカプリを思い出す。
普通の日にもかかわらず、観光客でにぎわっている。外国人の方や中高年のツアーも多い。
なんといっても世界遺産でもあるということと広島の名前は有名だからか。
厳島神社のある入り江は本当に美しかった。
太陽の光を浴びて水とともにきらきら光る。
やはりこの場所は太古の昔から特別な場所で、大事にされてきたところのような気がした。
最初にお参りした頃は、水が引いて地面がむき出しになっていた。
鹿が浜辺に下りたりと不思議な光景だったけれど、厳島神社の背後に控える山間にある紅葉谷をぶらぶらしてみる。
紅葉饅頭の由縁だと思うが、そこかしこの紅葉が紅葉していてとても美しい。
紅葉谷の散策の後、神社に戻ってみると水が満ちていた。
干満の時間がこんなに短いのか?
とはいえ、水の中の神社はとても美しく、建物の朱色が水に映える。
最初の葛城は、苦しんでいる葛城の神を出羽の国から来た山伏が加持祈祷によって救い、最後は喜びの大和舞を待って終わる。
最初は村の女の衣装で出てくる、最後には気高い巫女のような衣装で舞う姿がとても美しい。本当に能の衣装は素敵で、また女の面がまた美しくより女神の踊りのような気がしてくる。神を人間の祈祷で救うとい設定も面白いが、古代の神と人が身近な時代のおとぎ話のような能だった。
その後すぐに狂言が始まる。
シテは野村萬斎。許しなしに外出した太郎冠者を叱ろうと主人と次郎冠者が家に出向くが、居留守を使って断る太郎冠者をいろんな呼び声で誘い出す「呼声」。
最初は普通、次は平家節、そして小唄節、、最後の踊節を使っていいリズムなのでつられて踊り出てしまうという話。やっぱり萬斎の声は素晴らしいと思ったし、とっても楽しいお話なので会場の人も笑い出す。 かたいお能の合間にやはりこのような狂言があるのだろう。
ここでやっと25分の休憩。
最後は、友枝雄人さんの「邯鄲」(かんたん)
中国の蜀の時代の話で、人生に悩んだ青年が、邯鄲の宿で昔仙人にもらったという悟りを開く枕というのを貸してもらう。その夢の中で、王位について酒宴を50年も続け歓喜の舞を踊り・・・と思ったら、目を覚ます。
そこで、すべては夢だったのかと茫然とし、人生何事も一炊の夢と悟りを開く。
人生の栄華がいかにはかないかということを示したお話。
登場人物は多かったが、大半は青年の踊り。
宿の女役の萬斎は最初と最後だけに出るので途中はずっと舞台脇で正座していた。しんどいなあ~なんて思っていたが、彼らにとっては平気なんだろう。
この舞台は、夢と現実が交錯し、宿屋や酒宴という違う設定を限られたの能舞台で表現されるのはすごいと思った。ここに日本のミニマリズムというのか、畳に襖の座敷を思い出す。
何もない置かない部屋、絵は襖絵、唯一の表現は床の間であったりするが、そういうところが共通しているなと感じる。
反対に海外の舞台はすごいな~と思う。オペラを招聘するプロダクションの人の話によると、日本に呼ぶだけで何億のお金がかかるそう。舞台装置から人から楽団から考えるとたくさんの人と物を持ってこなくてはならないからだ。
その点、日本のお能はすごいな~と感心。
みんな扇子と楽器は持参する。舞台道具もたまに小さい台だったり、鐘だったり。それも紙とか竹とかでできていて観客の前に運んできて組み立てるわけだから。
比較文化ということで考えてみるととても面白い。
ほぼ同時代に活躍した同じジャンルの作品を対比させることによって、新たな発見があったり、自分の好みを改めて確認できたと思う。
檜の絵を描いた狩野永徳と松林を描く長谷川等伯を対比したり、禅宗の尊師を描く雪舟VS雪村。
茶道ではなじみのある初代長十郎の茶碗と、安土桃山時代に芸術集団を率いた本阿弥光悦のの茶碗を対比。 光悦は書や絵もたしなむ多彩な人だったので、六歌仙の和歌を書いた巻物に、下絵として鶴の絵を宗達が書いたという「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」は素晴らしかった。
焼物の野々村仁清 VS 尾形乾山だったり、江戸時代の仏師、円空 VS 木喰だったり、奇想の画家として人気上昇中の伊藤若冲 VS 曽我蕭白 等等・・
作風としては宗達がいいなあ~とか、等伯がいいなあ~とか、円空さんの素朴な仏像がいいなあ~とか・・・ いろいろと楽しめた。
もちろんお茶を習っている身としては、長十郎や光悦の素晴らしい茶碗を見ることができた。
印象的だったのは、日本の絵は襖に書かれたこと。雄大な景色や大胆な動物や季節の草花や自然の風景を何帖にもわたる襖絵や屏風に描き、昔は部屋と一体化していたのだろう。日本独特の美意識、畳には何もおかず、襖により仕切った部屋の数々を飾っていた絵たちを想像する。
襖絵ではなく軸についても部屋中に飾るということはなく、床を作り、その空間に合うものを掲げたわけだから西洋の文化とは違うなと実感する。
朝日新聞のサイトに作品と巨匠たちについて詳しく載っている。
http://www.asahi.com/kokka/masterpiece/index.html
それにしても岡倉天心の「國華」創刊の辞
「美術は國の精華なり」
は素晴らしい言葉だと思う。
そういえば、以前見たドキュメンタリーで廃仏毀釈により荒れ果てた日本の寺にあった仏像を丁寧に修復し、文化財指定の基礎を築いたのは岡倉天心だったという。
日本の美術界にとってなくてはならない存在の方だったのだと思う。
もちろん帰りには、法隆寺宝物館による。
先ほどの喧騒とは打って変わって、ひっそりとして静かな空間である。
隣にはホテルオークラのカフェも併設されているので、ランチを取ってゆっくりしてから帰ることができて大満足。
先日和歌山の素晴らしいびわをいただいた。旬のびわはとてもジューシーで甘酸っぱくておいしい。
初夏の味を堪能。
びわの葉のお茶は身体にもいいらしい。
ずいぶん前に書きかけてそのままになっていたのだけれど、ちょっと前に歌舞伎座団菊祭りの千秋楽を見に行った。
毎年、団十郎と菊五郎一派が一緒に登場するのだが、今回は義経千本桜の中の「渡海屋」「大物浦」に久しぶりに海老様が出るので、いつもの歌舞友といつものだらだら席(2階の桟敷の一段上、畳敷きに掘りごたつ風になっている楽チン席)に座る。
海老蔵の役は平家方の武士だが、壇ノ浦の合戦で実は入水せずに生き延びた安徳天皇をかくまって船宿の主人に収まっている役。(もちろんフィクション)
最初に登場したときは、船宿の主人なので町人の親分風というのがまた格好いい。着物の上着をひっかけた着流し風、タバコを吸う感じは浮世絵の人!という感じ。
その後義経一行を見逃したけれど、(それはもしかしたら味方になるかも?という算段)その後結局義経と戦い、碇(いかり)をまいて果てるのだが、主人である安徳天皇がまたひどい。5歳ぐらいの坊やが演じているのだけれど、子供らしい残酷さというのかもちろん主人だから仕方ないけれど、「義経の提案で天皇が義経方につけば守ってくれるというから義経についてくよ~」とあっさり言われてしまう。
必死の思いでお守りしてきた主人である天皇に、最後は見捨てられ入水するわけだ。
真っ白だった武者姿が、最後は血だらけになって
「昨日の敵は今日の味方・・・・」と言って死んでしまう。
安徳天皇が生き延びて、義経についていくというお話だけれど、なんだか切ないというか、残酷なお話。
その後の「極付幡随長兵衛」でも結構悲しいお話。旗本奴という武士方の若い衆と町奴という町人方のいざこざで、明らかに旗本奴のほうが悪いけれど、町方の親分が殺されるとわかっちゃいるけど武士の家に行って殺されるという話。
ストーリーだけ書いているとひどいじゃないの?といことだが、これってその頃の町人の気持ちを代弁しているのだろうか?とふと思った。死ぬとわかって親分を送り出し、最後は棺おけを持って迎えにいくなんて・・・
よくあった話ではないかもしれないけれど、町人の気持ちが入っているから歌舞伎の題材にもなるのだろう。
歌舞伎って、楽しい舞踊意外はハッピーエンドが少なくてなかなかシュール。
シュールといえば、7月の歌舞伎は、玉三郎と海老蔵オンリーで昼は義経千本桜と夜は泉鏡花の「夜叉ヶ池」と「高野聖」。
泉鏡花の話ってかなりシュールで怖いのです。
今日駅で見かけたポスター。
これもかなり怖いです。
私達は今回は昼の部を見に行くことにしてますが・・・
昔からオリーブオイルは大好きだってけれど、最近は身体にとてもいいことも知った。