月曜日, 8月 24, 2009

大和魂


毎年夏にニューオータニで開催される国連協会のパーティに行った。
国連協会の会長が裏千家の大宗匠、千玄室さんなので私もお茶の先生の案内でいつも連れていっていただく。

例年14時から立礼席でお茶をいただき、15時から講演会があり17時半ぐらいから立食パーティとなる。

いつもメインの講演者の前に大宗匠がお話されるのだが、今回は1時間ほどお話された。



今回のお話は、一碗のお茶を持って世界中の方々と交流されている大宗匠らしい、考えさせらる話だった。



最近の世界の中の日本のおかれている状況には厳しいものがある。
特に近隣近隣諸国との関係においてはなかなか大変である。

もうすぐ選挙になり政権が変わるかもしれないが、政治家だけに任せている国民がいけない。
国旗のもとに誇りを持つことは大事であり、他の諸国を見ると皆誇らしくしているのに日本においては、そうする人が少ない。大和魂を持つことが大事ではないか。

大和魂と聞くと「軍国主義?」と反応してしまう方が多いが実はそうではない。

古来の日本においては衣食住、律令などを輸入し、中国、朝鮮の影響を受けてきたが、平安時代から国風文化が花開く。その頃に書かれた源氏物語の乙女の巻に大和魂のことが書かれてある。

天皇の資質としてどんなものがあるかという件らしいのだが、「和魂漢才」(和の魂を持って外のものを取り入れる)がいいとしている。

まさにこれが大和魂、和を心を持って外のいいものは取り入れようという姿勢がいいということ。


そして複雑化する国際状況の中で、本音を引っ張り出すものは「文化」である。

わかりあえないときにでも、まず一杯のお茶を差し出すところから交流が始るのではないか。



要約するとこのような話だった。


特攻隊の要員として出陣待機されていた大宗匠がおっしゃる言葉だから重みがある。
おそらく明治時代に「和魂洋才」として西洋のものはどんどん取り入れようという動きがあり、戦争というあらぶる行為の中にその精神を使われてしまったので、どうしてもナショナリズムの代表みたいに短絡的に理解してしまうのである。

本来の精神、優れたものは取り入れるけど、和の心は忘れてはいけない、ということを覚えておかなければならない。

本来の意味を忘れないように、そして伝える努力をしていかないといけないと思った。



ちなみにwikipediaには大和魂のことは以下のように書かれてあった。

大和魂(やまと-だましい)は、外来の学問・知識を日本に採り入れる際に必要な判断力・能力、または情緒(もののあはれ)を理解する心などを指す用語・概念。右記に示すとおり、性格・能力・品性もしくはそうした性質そのものを指す極めて広い概念・用語である。

平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、上記のような諸内容を包含するきわめてひろい概念であったが、江戸時代中期以降の国学の流れのなかで、「漢意」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」「万邦無比の優れた日本の精神性」「日本国家のために尽くす清い心」といった誤用がむしろ主流となっていった。この傾向は明治時代以降、ナショナリズムや民族主義の興隆とともに過剰な意味が付与されるようになり、第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。そのため日本の敗戦後は、日本の文化・思想界の主潮流から追いやられている。




ただ、和の心とは実際何なのか?外国人から聞かれたらどう伝えるのか?という問いには、具体的に答えることがどれを見ても難しい。

平安時代に認識されていた情緒を理解する心、日本固有の心、日本文化を愛する心といえばいいのかな。

特定するのが難しいが、日本に生まれて、また日本にかかわって感じた、その人自身の心というのが一番いいだろうか。